手塚治虫さんはなぜマンガ家になったのか

私がまだ幼いころ、ジャングル大帝というマンガがテレビでやっていました。(年がばれる~)


臆病者の幼い白いライオン、レオが成長して、やがてジャングルの大帝になるまでの物語です。ワクワクしたものです~♪


のちにそのマンガはライオン・キングの原型となったとも言われています。


弟は鉄腕アトムの再放送とかを見ていました。火の鳥とかブラック・ジャックとか有名ですよね。


そのマンガの原作者の手塚治虫さんがマンガ家になったいきさつを読んで、なるほど~こんな素晴らしいお母様がいらしたからだったんだ~と感動しました!


このように励まされたお母様がいらしたからこその手塚さんの先駆者としての偉業があったのだと思いました。



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1945年8月15日
第二次世界大戦が終わりました

日本はポツダム宣言を受け入れて
アメリカやイギリス
ソ連など連合国に従うことにしたのです

この日の正午
日本が戦争に負けたことを告げる
天皇自身の声によるラジオの放送が流れました

これを聞いた人たちの中には
くやしがる人もいましたが
空襲の心配をしないで暮らせることにうれしなみだを流した人もいたのです

手塚治虫も
そんな一人でした

その日
治虫は
朝から自分の部屋でマンガをかいていました

医者になるために
7月に大阪大学付属医学部に入学したものの
空襲で校舎が焼けてしまい
もうずっと授業はありません

太陽が少し西にかたむきかけたころでしょうか

治虫はあれっと思い
手をとめました

開けはなした窓の外に耳を向けます

聞こえてくるのはセミの声ばかり

みょうに静かです

いつもは家の前を行きかう人々の声や物音が聞こえてくるのに
それがまるで聞こえないのです

不思議に思って外へ出てみると
通りには人っ子一人いません

昼間とは思えない異様な光景です

いったい何が起きたというのでしょう

人の姿を探して
とうとう阪急の駅まで来てしまいました

いつもはお客でにぎわっている宝塚駅も
今日は数えるほどしかいません

そんな様子をぼんやりながめていると
だれかの話し声がきれぎれに聞こえてきました

「戦争」とか
「負けた」とか

(日本が戦争に負けた?
まさか
そんなことが。。。)

気がついたら
治虫は梅田行きの電車に乗っていました

夕方だというのに
電車の中もがらんとしています

梅田に着くと
治虫はびっくりしました

日が暮れたというのに
町が明るいのです

戦争中は
灯火管制といって
空襲の目標にされないように
夜でも電灯をつけないことになっていました

街灯はもちろん
家の中の電灯ですら布でおおって
外に明かりがもれないようにしなくてはいけませんでした

それなのに駅前に並んだシャンデリアがまぶしいほど光っています

街灯が灯り
焼け残った建物からは明かりがもれています

(戦争は終わった

そうか
もう空襲で死ぬことはないんだ

これからは自由に
思いっきりマンガがかけるぞ)

思いもよらない日本の敗戦に
くやしい気持ちがなかったわけではありませんが
それ以上にうれしさがこみあげてきました

治虫が小学校に上がる前から
日本は戦争をしていました

高校では軍隊の訓練がありました

それはとても厳しくつらい時間でした

やがて授業はなくなり
学校の代わりに工場へ行くようになりました

工場で働いているときに
空襲で死にかけたこともあります

治虫は
今こうして生きていることが嬉しかったのです

心の中で
「バンザイ!」
と何度もさけびました

9月になると
大学で授業が再開されました

しかし
治虫の頭の中はマンガのことでいっぱいです

勉強はそっちのけで
マンガをかきまくりました


かいたマンガは友達に回して見せました

次から次へとおもしろいマンガが読めるのですから
みんな大喜びです

そのうちに
ある友達が言いました

「こんなにマンガがうまいんだから
新聞社に売り込んだらどうなんだ?」

さっそく治虫は
「幽霊男」(メトロポリスの原型)という長編のマンガを毎日新聞の大阪本社に持っていくことにしました

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作品には自分を売り込む手紙もつけました

なんと社長宛の手紙です

『戦争に負けた今
日本国民は元気を失っております

その元気を取り戻すには
新聞に
明るい笑いに満ちたマンガをのせることが必要であります

とは言っても
これまでの漫画家を使ってはいけません

この役目は新人にこそふさわしいのです

ちょうどよいことに
わたしには戦争中にかきためたマンガが多数あります

わたしのマンガをのせれば
日本の将来はきっと明るいものになるでしょう』

17歳の若者が新聞社の社長に書いたとは思えないような
えらそうな手紙です

しかし
治虫には自信がありました

何しろ戦争中もマンガをかきつづけ
かきためたマンガが3000枚以上もあったのですから

毎日新聞大阪本社は
梅田駅から歩いてすぐの堂島(大阪北区)にありました

毎日新聞といえば全国紙

立派なビルの前に立つと
さすがに緊張しました

「すみませんが
これを。。。」

「それは何ですか?」

大きな封筒を差し出した治虫を
受付の女性がじろっと見ます

「マンガの原稿が入っているんですが。。。」

「では
毎日新聞の記者を呼びますので」

「いえ、いいんです
ぼくはたのまれて持ってきただけですから」

そう言うと
治虫はにげるようにして出てきました

駅へ向かう道すがら
治虫はわたしてきた原稿のことを考えていました

(今ごろ
毎日新聞じゃおおさわぎだぞ
「すばらしい。この作品には今までにない新しさがある!」
とかなんとか言ってね

そこへ手紙を読んだ社長がやってきて
連載はその場で決定

となれば
あとは原稿料をいくらにするかだ

新人とはいえ
毎日新聞だからなあ
そう安くはないだろう

連載開始に向けて
明日あたり
カメラマンを連れて取材に来るかもしれない。。。)

あれこれ想像しているうちに
自然と口元がゆるんできます

にたにたしながら歩く治虫を
すれちがう人たちが不思議そうに見ていました

一週間がたちました

自信満々で持っていったものの
新聞社からはいっこうに返事がありません

学校から大急ぎで帰ってきて
郵便受けをのぞいてはため息をつく
そんな毎日です

(ぼくのマンガはおもしろくなかったんだろうか

いや
そんなことがあるはずがない

きっと手紙が社長のところに届かなかったんだ。。。)

そう自分をなぐさめましたが
三週間もすると
治虫はすっかり自信をなくしてしまいました

治虫の家のとなりに
毎日新聞社に勤める女性が住んでいることがわかったのは
そんなときです

その人のおかげで
「毎日小学生新聞」
の編集長に会えることになりました

治虫から事情を聞いたその人が
治虫のマンガを編集長に見せてくれたのです

こうして
治虫にチャンスが訪れました

約束の日
治虫が毎日新聞社の応接室で待っていると
スーツを着てきちんとネクタイをしめた男の人が入ってきました

まだ若そうに見えますが
落ち着いた感じの人です

「毎日小学生新聞の程野(ほどの)です

君の作品
見せてもらいました

なかなかうまくかけていると思いました

どうでしょう
うちの新聞に
四コママンガをかいてみませんか?」

「四コママンガ、ですか?
長編のマンガばかりかいてきたので
自信が。。。」

いきなり、きりだされて
治虫がとまどっていると

「まあ、そう言わずに
やってみたらどうです

君なら大丈夫です

申し訳ないですが
四コママンガも見ておきたいので
何枚かかいて
明日持ってきてください

最終的には
それを見てから決めさせてもらうということで
いいですか?」

優しい目で治虫の返事を待っています

「わかりました、かいてきます
ありがとうございます」

治虫はお礼を言うと
家へ飛んで帰りました

次の日

昨日と同じ応接室です

しばらくすると
程野編集長がやってきました

「作品はできましたか?」

にこやかに声をかけて
編集長は向かい側のソファに腰を下ろします

治虫は
「はい」
とうなずいて原稿を手渡しました

昨夜
必死にかきあげた6枚です

原稿にじっと見入る編集長の顔を
正面から見つめました

これが最初で最後のチャンスかもしれない

そんな気がして
ドキドキします

編集長はだまったままで
口を開きません

にこりともしません

コツコツという掛け時計の音ばかりが聞こえてきます

治虫には長い長い時間でした

本当は数分だったかもしれませんが
その10倍にも感じました

もう
のどがからからです

(やっぱり
ぼくのマンガはおもしろくないんだ)

ふっと力がぬけてかたを落としたときです

「これ、いいですね
来年の元日スタートでいきましょう」

「えっ、ほんとですか?
ありがとうございます」

「年末までに
30枚かいてきてください

その中からわたしが選んでのせます

おもしろい作品をたのみますよ」

「はい、がんばります
よろしくお願いします」

治虫は立ち上がって
ひざに額がつくほど頭を下げました

新聞社のビルから歩道に出ると
雲ひとつない青空が広がっていました

(やった

とうとう
ぼくのマンガが新聞にのるんだ

ぼくのマンガを読んだ子どもたちは
どんな顔をするだろう

楽しみだなあ)

治虫は
バンザイの代わりに力いっぱいのびをしました

連載マンガのタイトルは
「マァチャンの日記帳」に決まりました

治虫は来る日も来る日も
マンガのアイデアを考えました

一枚かくたびに
妹に反応を見せて反応を確かめました

連載が決まったとはいえ
新聞にのせるマンガは編集長が選ぶのですから
気はぬけません

無事に原稿を届け
大晦日をむかえた治虫は
朝から落ち着きませんでした

明日から連載が始まると思うと
わくわくしてきます

その夜は一睡もできずに
布団の中で新聞配達を待っていました

しかし
どうにも待ちきれず
夜が明ける前に
駅の売店まで走っていきました

ところが
まだ届いていないというのです

しばらく寒い駅のベンチで待ちましたが
ちっとも届きません

こうなったらと
治虫は電車に乗りました

ひとつ先の駅の売店で聞いてみましたが
今度は売り切れでした

結局
梅田まで行きました

毎日新聞社へ行けば確実に手に入れることができます

受付で新聞を3部買うと
治虫は急いで広げました

「あれっ?」

どこにも
『マアチャンの日記帳』
がのっていません

ページがぬけおちているわけでもなさそうです

(まさか
全部ボツになったというんじゃあ。。。)

頭の中が真っ白になりましたが
気を取りなおして
もう一度よく見てみました

と、連載の予告が

そこには1月4日から始まると書いてありました

残念ながら元日の新聞で自分のマンガを見ることはできませんでしたが
治虫はほっとしました

こうして
17歳の学生マンガ家
手塚治虫がデビューしたのです

1946年のことです

『マァチャンの日記帳』は好評でした

一ヶ月で終わる予定が三ヶ月に伸びたほどです
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連載が始まると
ほかの新聞社からも依頼がきました

最初の単行本『新宝島』も出版されました

この長編マンガは
ストーリーマンガという新しいスタイルでかかれたものです

四コママンガとは全くちがうマンガの登場に
多くの読者が興奮しました

順調に仕事が増えていくのはうれしいことですが
困ったこともありました

いそがしくて
学校で医学の勉強をする時間がますますなくなってしまったのです

学校は欠席が多くなりました

たまに授業に出ても
先生に気づかれないようにマンガをかいています

病院での実習のときには
アイデアを考えていて
カルテにまでマンガをかいてしまいました

しめきり間際の原稿を
宿直室で徹夜をして仕上げることもありました

ついに担当の教授に呼び出されました

「君がマンガをかいているのは知っておったが
こんなことじゃあ
ろくな医者にならん

きっと患者を殺してしまう

医者になるのはやめて
マンガ家になったらどうなんだ」

治虫はなれるものなら
マンガ家になりたいと思いました

もともと医者になろうと思ったのは戦争があったからです

軍医なら戦場へ行っても安全なところにいられると考えたのです

ただ
将来のことを考えると
マンガ家で安定した生活ができるか心配でした

それに
社会的な地位がまるでちがいます

当時の世間からは
マンガ家は医者よりもはるかに低い地位の職業として見られていました

せっかく医学部に入学したのに
医者にならずにマンガ家になるということが許されるのだろうか

父や母はどう思うだろう

考えれば考えるほど
どうしたらいいか
わからなくなりました

ある日
思いきって母に相談してみました

「あのう、ちょっとお話が。。。」

「このごろ考えごとをしているようですが
何かあったのですか?」

母は
悩んでいる治虫に気づいていました

「マンガの仕事がいそがしくて
勉強にも実習にも身が入らないんです」

「両立は難しいですものね」

「このままじゃ
医者になれないかも。。。」

「まあ、それは大変」

「実は、医者になろうか
マンガ家になろうか
迷っているんです

医者になるには
マンガの仕事を減らして
もっと勉強しなくちゃいけません

このままマンガの仕事を続けていっても食っていけるのか。。。」

「あなたはどちらが好きなのですか?」

「もちろん、マンガです!」

すかさず答えた治虫に
母はにっこり笑って言いました

「だったら、マンガ家になりなさい
それでいいじゃないですか」

母のそのひと言で心が決まりました

(よし、僕はマンガ家になる

どんなことがあっても
日本一のマンガ家になってみせる

これまでにない
新しいマンガをかいていくんだ)

治虫の心の中には
もう少しの迷いもありませんでした

自分のかくストーリーマンガで日本のマンガを変えてやる

そんな思いを胸に
治虫はマンガ家の道をつきすすんでいきました
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【もし、手塚治虫がマンガ家になっていなかったら。。。】

東京の豊島区にあったトキワ荘は
その昔
若いマンガ家たちが暮らしていたアパートとして有名です

そこに最初に住んだのが手塚治虫です

1953年頃のことです

手塚治虫は1年ほどで引っ越しますが
その後
マンガ家を志す若者たちがどんどん移ってきて
2階の住人がそういう人たちばかりになったこともありました

みんな手塚治虫のマンガに感動し
手塚治虫にあこがれて
トキワ荘にやってきたのです
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藤子不二雄
石ノ森章太郎
赤塚不二夫といった
みなさんがよく知っているマンガ家たちも
青春時代をここで過ごしました

「世界にほこれる日本のマンガ文化」と言われるまでになった日本のマンガですが
それを築いてきたマンガ家たちに
手塚治虫は大きな影響を与えました

もし手塚治虫がマンガ家になっていなかったら
日本のマンガは
これほど素晴らしいものにはなっていなかったかもしれません


野村一秋著 『芸術のヒーロー伝 教育画劇』より
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by shantifuji | 2012-02-05 11:25 | ひとり言

自然の恵み、暮らしづくりを愉しむ日々のつれづれを綴ります 


by shantifuji
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