田植え
昨日は主人の実家での田植えでした。
今年はお義父さんが少し前に足を痛められたのでお義母さんと主人のお兄さん、主人の弟、そして、本来は主人がやるのですが今年は仕事でどうしても参加できず、私が主人の代わりに手伝うことになりました。
田んぼは大小取り混ぜて7枚あって、それも形が変形しているので、基本は機械植えなのですが、まわりは手植えです。初心者なのでお義母さんについて実地指導してもらいます。

実際に田んぼに入ると足がはまりこんで抜くのにものすごく力がいります。私は2足長靴を持ってきていたのですが、その長靴でははまりこんで歩けないので、専用の長靴を借りました。
それでも抜くのに力はいるし、中腰で植えていくので足腰はだるいし、いやはや大変。

苗の箱がたまっていくので、それをタワシで洗うのも私の仕事で、これもナメクジが溝に入り込んでいるのでなかなかきれいにならない。最初はたわしで取り除いていたけれど、途中からは指でほじくる始末。
最初は苦戦していたけれど、途中から少し慣れてくると、田んぼの中はなかなか気持ちがよくなってきて、コツをつかんできました。

その様子を見て、お義母さんが「今年はこんなに楽させてもろうて、ほんとありがたい、ありがたい。」と、とてもうれしそうに声をかけてくれました。
毎年毎年当たり前のようにお米をいただいてばかりの20ウン年間、お義母さんは私たちに美味しいお米を食べさせてやりたい、と米作りに励んでくれて、実際に手伝ってみて初めてその大変さ、ありがたさが身に沁みました・・・。
お義父さん88歳、お義母さん86歳、いつもお元気で仲睦まじいお二人に、まだまだ教えていただきたいことは山ほどあります。
畑や田んぼのまわりに花々もたくさん咲いていました・・・。



今年はお義父さんが少し前に足を痛められたのでお義母さんと主人のお兄さん、主人の弟、そして、本来は主人がやるのですが今年は仕事でどうしても参加できず、私が主人の代わりに手伝うことになりました。
田んぼは大小取り混ぜて7枚あって、それも形が変形しているので、基本は機械植えなのですが、まわりは手植えです。初心者なのでお義母さんについて実地指導してもらいます。

実際に田んぼに入ると足がはまりこんで抜くのにものすごく力がいります。私は2足長靴を持ってきていたのですが、その長靴でははまりこんで歩けないので、専用の長靴を借りました。
それでも抜くのに力はいるし、中腰で植えていくので足腰はだるいし、いやはや大変。

苗の箱がたまっていくので、それをタワシで洗うのも私の仕事で、これもナメクジが溝に入り込んでいるのでなかなかきれいにならない。最初はたわしで取り除いていたけれど、途中からは指でほじくる始末。
最初は苦戦していたけれど、途中から少し慣れてくると、田んぼの中はなかなか気持ちがよくなってきて、コツをつかんできました。

その様子を見て、お義母さんが「今年はこんなに楽させてもろうて、ほんとありがたい、ありがたい。」と、とてもうれしそうに声をかけてくれました。
毎年毎年当たり前のようにお米をいただいてばかりの20ウン年間、お義母さんは私たちに美味しいお米を食べさせてやりたい、と米作りに励んでくれて、実際に手伝ってみて初めてその大変さ、ありがたさが身に沁みました・・・。
お義父さん88歳、お義母さん86歳、いつもお元気で仲睦まじいお二人に、まだまだ教えていただきたいことは山ほどあります。
畑や田んぼのまわりに花々もたくさん咲いていました・・・。



『困ってるひと』の著者、大野更紗の福島への思い
先日、Cさんより『困ってるひと』という本を紹介していただきました。

書評を読んでとても惹かれるものを感じてさっそく購入して読んでいます。
その著者、大野更紗さんが福島への思い、福島と東京の分断を埋める「作業」をていきたい、という記事を日経オンラインで読み、本当にいろいろと考えさせられました。
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『困ってるひと』の著者、大野更紗の福島への思い
福島と東京の分断を埋める「作業」をしていきたい
2012年5月23日(水)
ある日突然難病を発症し、先進国であるはずの日本で「難民化」した自らの姿をリアルに描きながら、医療や福祉制度の深刻な現状を社会的な問題として浮き上がらせた『困ってるひと』(ポプラ社)。著者は福島県出身の作家、大野更紗さん(27)。同書は、大学院生としてミャンマー(ビルマ)の難民支援活動の研究を志していたなかで、病を発病して支援される側の立場に立ったことで、新たに見えてきた世界を独特のタッチで綴った。
その大野さんが5月21日、これまでメディアに語ってこなかったことを話してくれた。福島県出身者として、作家として、事故を起こした原発をどう見ているのだろうか。そしてなぜあえて今、話すのか。
「原発事故が起きることは、わたしにとっては『とっくの昔に知っていた』ことでもあります。知っていた、という表現には、語弊がありますね。東日本大震災が起きたとき、真っ先に脳裏に浮かんだのは『メルトダウンする』というフレーズでした。それは、理屈や論理でもなく、知識とか思想とか、そういう類のものとも違うものでした。それは18歳まで、福島のなかでも特に、原発を考えることが多い環境で育ちました。福島第一原子力発電所をめぐる『家訓』のようなものから浮かんできた、個人的なフレーズです」
「3.11後、福島について何度も『コメント』を求められる機会がありました。でも、『コメント』はすべてお断りしました。3月19日に自分のブログに、記録用に小文のようなものを書き、それから文芸誌に一度、長めのエッセイを発表しましたが、それも直接事故について言及するようなものではなく、『遠回しなエッセイ』で、自覚的に「のらりくらりと受け流してきた」ように思います』。
「東京からの手紙」というタイトルは、ミャンマー難民の支援活動をしていた学部生時代に読んだ、1冊の本にちなんでいるのだという。ミャンマーの民主化運動の象徴的存在でもあり、1991年にノーベル平和賞を受賞しているアウンサンスーチーさんが、毎日新聞の紙上で連載した「ビルマからの手紙」。アウンサンスーチーさんは、軍事政権下で通算約14年9カ月もの長きにわたり自宅軟禁状態におかれながら、一貫して、対話による社会の漸進的な変革を求め続けてきた。大野さんは自身の連載のなかで、「福島と東京の深い断絶に、対話の回路がひらかれること」、原発震災後に福島県内で起きている様々な問題について、その糸口を見つけたいという期待を綴っている。連載を開始するにあたって、原発をめぐる原体験、家族や親戚、友人たちが暮らしている被災地・福島への思いを話してくれた。
そして原発をめぐる原体験、家族や親戚、友人たちが暮らしている被災地・福島への思いを話してくれた。
日常に交わされる言葉の中に「原発」があった
一県民として、大野さんが原発のことを知ったのはいつだろうか。それは20数年前の幼い頃にさかのぼるという。
「私が育った家は福島県の中通りの山あいにあります。『困ってるひと』(自著)では『ムーミン谷』と呼んでいますが、東北の典型的な、過疎と高齢化が進行する小さな集落です。母方の家は、浪江町にあるんです。小さい頃、浪江の祖父母の家に遊びに行くと、ムーミン谷にないようなきれいな公園や保養施設がたくさんあって、そこで遊んだりしていました。子どもながらこんなに立派な施設があるのは『東電が放射能のお金で作ってくれたからだ』とちゃんと理解していました」。
「原発事故が深刻な事態を引き起こす。それについて、驚きや『騙されていた』というような感情が、わいたことはありません。幼い時から『原発の危険性』については、祖父や母から何度も言い聞かされてきました。福島第一原子力発電所が老朽化した危険な施設であり、いつかは大事故が起きるだろうということは、知っていた。そして、大事故が起きたらどんな状況になるかも知っていました。原発に関して、専門的な知識は一切わかりません。どんなに勉強しても素人の付け焼刃だし、わかるとは到底思えません。わたしが個人的に、数学も物理も苦手で数式は見るだけで眩暈がするという、筋金入りの文系であることも、放射線リスクをめぐる膨大な一次資料を読めない大きな理由の1つだと思います。ただ、『人間の、あたりまえの生活の感覚』として、こんな施設の近くに住むことは危険だということは、祖父から滔々と聞かされつづけてきました。祖父は、ただの一住民です。でも、原発という施設の近隣で生活する人間として、歯が立たないような設計図や専門用語を目の前に、何十年もいつまでも、執拗に素人勉強を続ける、変わった人でした」
原発について日常的に関心を持っていた背景には、自らが育った環境が非常に大きく、日常感覚として原発問題に触れていたという。
「この、もう亡くなってしまった母方の祖父(母の父)は、地元の反原発運動家でした。浪江町は、福島第一原子力発電所のある大熊町と双葉町の隣町です。自治体の線引きはともかく、直線距離は近かった。内橋克人さんの『日本の原発、どこで間違えたのか』という本の中に、地元の反原発運動家たちの記述があります。これを読むと、祖父のことを思い出します」
「この町に、賛成の学者もくれば、反対の学者もくる。講義はしてくれるが、横文字で書かれたって、どっちがどうとも分かんねえ。で、日本語で教えてもらいたい、と……」
「大学教授の話を八ミリ撮影機とテープレコーダーで記録し、自宅に持ち帰ってから専門用語の解読に没頭したこともある。説明に現れた技術者に「原発は爆発するものなのか、しないものか?」と質問して冷笑された……。”
『日本の原発、どこで間違えたのか』(内橋克人著、朝日新聞出版社)から引用
「祖父は原発直下の地域で『ふつうの人』として暮らしながら、このような『独学』をしているタイプの人でした。近所で忌み嫌われるわけでもなく、『ちょっと変わった人だなあ』という感じでしょうか。母も『独学』タイプで、プルサーマル計画がいよいよ始まるという時に、郡山駅前まで行って、独学を重ねたほかのお母さんたちと一緒にその危険性を訴えてシュプレヒコールを上げたり、デモをしていました。そういう母や、『革新派の婦人』たちを見て、わたしは『うーん、変わった人だ』と思いつつ、『でも、えらいな。道ゆく人はみんな無視するのに、やめないんだなあ』とも思いました」
「中通りで生まれ育った父の方は、保守的で、原発については母とは違う考えの持ち主でした。浪江の家と中通りの家は、数十キロしか離れていませんが、原発に関する世界観は全く違います。母は『ヨソモノ』で、例えば選挙がある日は、子どもとしては困りましたね。夫婦間の政治的対立が、ピークに達する(笑)。ただ、それが家族の中で深刻な問題にならなかったのは、たぶん、保守的な考えを持っていながらも、父が柔軟だったことが非常に大きかったと思います。母が『地震で放射能漏れが起きるかも』と話せば、父は『そだことあるわけねえべ』とか『これだから理想ばっか語られっと困んだ』と言いながらも、母が言うことにも同調するときもある。実際、地震が起きて放射能漏れについてのニュースが福島県内のローカルテレビ局の番組で流れると、『不気味だなあ』と言ってみたり。父と原発の話をした記憶は、ほとんどないです。父は関心もないし、話さないからそれは当然のことですよね。祖父や母との会話のなかでは、『メルトダウン』とか『燃料棒』という単語は『カレーライス』や『ラーメン』と同じレベルで何の不思議もなく、日常的に使われていました」
家族とは3.11の震災直後から2週間ほど、連絡が取れず、生死も確認できない不安な日が続いたという。
「親戚の中には、浪江町の津島に避難していた原発避難の当事者もいます。しかし同時に、原発の現場の作業員として、東電の下請け関連会社で働いている人もいます。また、災害関連死のような形で、震災後に亡くなった親戚もいます。浪江町の家は『そこにある」けれども、もはや消失してしまいました。人はばらばらになり、みなそれぞれが、一生かけても取り戻せないような深い傷と負荷を負っています。そのようなことも『想定内』として、みな、心身を引き裂かれながらも、淡々と受け止めてきたように思います家や親戚の内部も、『分断』の中に置かれてきました」
原発は、福島県民や国民の間で分断や対立を生む「装置」として、3.11の東日本大震災のずっと前から、日常の生活の場に据え付けられていたのかもしれない。
「内なる途上国」と化した福島
いま、新聞連載を中心に、機会あるごとに東京と福島の人々の間の対話を呼び掛ける大野さん。大野さんの目には、「支援する側」「支援される側」に分かれてしまった厳しい現状が危機的に映っている。
「今、福島は『内なる途上国』と化してしまったのかもしれません。福島の人が自分たちなりの思考や言葉でいくら訴えても、東京の人たちにはうまく伝わらなかったり、自分たちが意図する文脈とは全く違う文脈で東京の人に受け止められてしまう。言葉が、通じない。『分断』そのものです。一方、東京の人は、何とかして福島の人たちを助けたい、役立ちたいとも思っています。福島を支援したいという思いは、東京だけでなく、世界中の人が感じていると思います。同時に、東京で生活する以上は、福島を含め地方が作った電気を消費しなくてはならない。大きなシステムを突然変えることはできませんから、脱原発というのは漸進的にしか進まない。『もやもやとした気持ち』、それを拭い去ることができない。電気を使わないで暮らすことは、誰にもできない。わたしだって、そうです」
東京で、闘病生活をしている大野さん。言葉の乖離について、考えることが多いという。
「私は『中途半端な者』ですので、東京ムラの言語と、福島ムラの言語が両方聞こえてきます。大学進学で上京する時は、私にとっての『福島』というのは、懐古する『ふるさと』でありつつも、衰退しゆくことが目に見えていて『もうなくなってもいい』とすら考えていた。高校を出ても、自分が就職できるような働き口がない。若者の雇用がないこと、たとえあったとしても決してよい条件や環境ではないこと。その現実については、地域の人たちもわかっていると思います」
「東京に出ていくと『立派だ』と褒められる。地域に根差して、その土地で暮らしていくという覚悟を決めている地元の人から『東京に出るなんてすごいねえ』と言われると、たまらない気持になった。私のどこが立派なのかと、心が罪悪感でいっぱいになった。私は、『みなさんこそが、立派で、すごいです』と言いたかったけれど、今までずっと何も言えなかった。言えなかった、のではなく、言わなかった。福島がズタズタに傷つくのを、ただ見ていた」
「なぜ避難しないのか」は冷淡に聞こえる
「一度は福島を切り捨てた」という大野さん。それでも福島から目を離さず、こうして対話の糸口を探る取り組みを始めたのは、難民支援などを通じた「支援する体験」と、難病患者として「支援される体験」を経て、福島の人に向けられた心無い声もきっかけの一つにはあった。
「原発震災は、阪神・淡路大震災の被災とは、いくつか異なる点があると思います。まず第一に、原発震災は1年2カ月を経てもなお、収束せず『続いている』ということです。また、阪神・淡路大震災では、自分の家が破壊されたとしても、そこに自分の土地があり、『戻ることができる』という仮定やストーリーが成立しました。10年、20年後の復興という、長期的な時間軸で物事を考えられてはじめて、街や生活を根幹から再建するというビジョンがうまれてくる」
「ところが原発震災では、戻れるのか戻れないのか、誰も選択肢を提示しない。誰も『わからない』のかもしれませんが。ともかく、明日どうなるともわからない、きわめてぜい弱な状況下で「生活する」ということを、福島の人は強いられているということは言えると思います」
「『なぜ避難しないのか』とか、『好き好んでそこにいるのだろう』とか、あるいは『避難すればいい。避難しないのは自己責任』といったあらゆる種類の言説が、外部から雨あられのように降り注ぐ。いかにも、冷淡です。フィールドワークをしていたとき、難民の方々の話は、膝を折って首を垂れて、延々と伺いました。わたしにとって『都合のいい話』だけしてくれるはずなんて、ない。とにかく、延々と伺う。『延々』と言っても、外部者にとっては、その場にいる一定期間だけです。そのようなことは、逃げられる『外部者』として、その土地に生きる住民の方々に対する、最低限の礼儀作法であると思いました」
「未曽有の『災害』に際して、被災者の方々にさらに複合的な責任論をかぶせていく傾向もいまだにあります。自己責任論というのは泥仕合のようなものですが、その渦中に引きずり込まれてしまった本人にとっての精神的負荷は非常に重い。『複合差別』と言えるような状況が、被災者や福島の人に降りかかっているように思います。かくも巨大な惨禍に際した被災者の方々に、あまりにも冷淡ですね。そして、被災地の『復興』とは、本来その地域の住民の方々によって成し遂げられるものです。住民の方々を圧迫し追いつめるという点においては、『復興』の阻害要因になるようにも思います」
「そして、避難をめぐる問題について、議論を整理し、『なんでもかんでもごった煮』状態になってしまっている現在の状況を少しずつ整理整頓してゆくことが、今後の課題だと思っています。整理する際も、主体は『住民=本人』であるという第一義的原則を外さないことに、気を遣いたい」
福島のニーズをさがす作業
被災地福島VS被災地以外で起こる分断。その分断を解決するための糸口は何か。
「福島の人に何らかの選択肢を社会が提示するとして、一体、どのような形が望ましいのか。原発震災という未曽有の事故にあわれた方々がこの1年2カ月、何を見て、何を経験し、今何を考えているのかを福島の方々に伺いたいのです。どのようなニーズを抱えているのかということを、ある程度整理する必要もあると思います。今までは震災の最中で、その日その日を生きてゆくのが精いっぱいで、『自分のニーズ』を考える余裕すらなかったと思います。ニーズは、遠くにいる誰かが決めてくれるものではない。今、福島で暮らす人々に求められていることがあるとすれば、自分のニーズを表出することかもしれません。それだけは、誰も代わりにやることはできません。語り、申し立てなければ、誰も代弁してはくれません」
しかし、支援される側としては、大声で何かを求めることがはばかられる場面があるのが現実だ。
「本当に必要な支援を他人に求められないというのは、支援の現場では、よくあることです。例えば社会福祉に携わっている人たちは、支援される側にそういった気持ちや戸惑いがあることは、前提として活動していると思います。ただし支援者も、ニーズを100%実現するのは難しい」
「両者が、互いにいかに社会の中でベストインタレスト(本人にとっての最善の利益)を追及し、実現していくことができるか。日本社会は社会保障や社会福祉の基盤整備が、たちおくれています。ソーシャルワークの必要性に、これほど大規模に、現実として直面したのは今までにないことですよね」と大野さん。
凡庸な失敗のくりかえしでしか人は学べない
原発を巡っては、反原発や脱原発を言えば色分けされ、問題が矮小化されてしまうといった問題もある。今回、初めて原発について言及することへの抵抗はなかったのだろうか。イデオロギー的対立についてはどう見ているのか。
「反でも脱でも、どっちでもいいんじゃないですか。そういうのは、思想の領域ですよね。どのような思想をもっていたとしても、今日、生きる権利はあります。イデオロギーを否定はしませんが、わたしはただ、それについて関心がない。『反原発』も『御用学者』も、そうやって分け隔てることについて、関心はないです」
「今の課題は、基本的な生活基盤の危機に陥っている人ををどうやって支えるかという段階です。例えば、今日これからご飯をどう食べるかと言う場面で、反原発でも脱原発でも原発推進でも、食べないと生きていかれないでしょう。 誰だって『助けてください』というのは躊躇するし、恥ずかしい。特に、中高年の男性はこういうのがいかにも下手ですよね。でも、死んでしまうようなプライドなら、さっさと捨てて、大丈夫です。今は何より、生き延びてほしい。生き延びて、これからの日本社会や地域社会を立て直すことにエネルギーを使ってください」
「『美しく死にたい』とか、『人に迷惑をかけずに死にたい』とか、そんなに簡単に言わないで下さい。美しく死ねなかったら、迷惑がかかるんだったら、生きている価値はないんですか?人間の生命が『生きるに値する』とか、『生きるに値しない』かどうか?そんなこと、誰に、決める権利があるんですか」
「私も1日の中で20回も30回も、自分のくだらないプライドに辟易しています。凡庸な失敗を繰り返す。うまくいかないんです。本当にうまくいかないんですが、うまくいかなくてもいい、それでも何とか生き延びること。人に迷惑をかけてでも、生き延びること。それは『わがまま』とは違います。『わがまま』と『ニーズ』は何がどう違うのかについて、それもおそらくは、ともに格闘して学ばねば、見えてこないことのように思います」
「日経ビジネスオンラインということで、余計なひと言を。ビジネスの最前線にいる方々のほうがこういう話は感覚的にわかるのではないかと思います。組織の中で、新しいアイデアを出す人というのは、安定的な組織の中では一種の『破壊的』な存在です。でも、組織が新しい視点へ進むときには、『破壊的なエイリアン』的な要素が必要ですよね。今、震災後の日本社会は急速な変化に対応せざるを得ない状況になっています。凡庸なデジャブ感のある失敗を100万回繰り返し、失敗することでしか学べない。それはビジネスの世界のフロントランナーこそが、毎日こなしている『作業』であるような気がします」。
とにかく生き延びよう――。生死に直面した体験を経て、現在もなお病や社会のシステムと闘う大野さんが、被災者と福島に向けたエールだ。
2011年3月11日以前の福島を記録に残したい
最後に、なぜ今「アーカイブ」と復興を関連付けて考えているのかについて、聞いてみた。
「福島は将来、人口が減って、県全体の活力が減っていく可能性のほうが高い。長期的に、福島県が「消える」かもしれない。それは、何を意味するのかということを、最近よく考えます。福島という地域に住んできた人々の文化や歴史が、世界からまるごと『消える』ことになる。福島の歴史や文化を後世に残すことは、今後この未曾有の原発震災を経て、生活していく人々に、ヒントを残すという非常に重要な『作業』であるように思います。『アーカイブ』を残してください。重要なことは、2011年3月11日『以前』です。何世紀にもわたり、福島で、人が生活や文化を紡いできた。公民館の片隅や、家々のタンスの中に仕舞ってある『記録』をひっぱり出してきて発信してほしい。それらは世界の人たちにとって、後世の人たちにとって、重要な資料となると思います」
「地方紙や地域のミニコミ、町の町史、あるいは口述筆記でしか残せない、戦中から戦後を経験してきたおじいちゃんやおばあちゃんたちの証言。どんな形でもいいから、記録しておく。アーカイブしておく。検証や整理は、何十年か後に、誰かがしてくれます」
半減期の長い放射能問題は、今後20年、30年、さらに、現代に生きている私達が死んでしまった後もずっと続く課題として、残ることになる。大野さんが言う福島と東京との対話は、実は未来との対話なのだ。アーカイブや記録は、未来の人々に手渡す大切な「手紙」の一つなのだ。
大野 更紗(おおの・さらさ)
1984年福島県生まれ。作家。上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科博士前期課程休学中。2008年に自己免疫疾患系の難病を発症。著書に『困ってるひと』(ポプラ社)など。2012年、第5回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞受賞。大野さんは4月25日から、福島県の地元紙・福島民友新聞で「東京からの手紙」(毎月1回最終水曜日に掲載)をスタート、自身のブログでもその内容を紹介している
日経ビジネスオンラインより転載

書評を読んでとても惹かれるものを感じてさっそく購入して読んでいます。
その著者、大野更紗さんが福島への思い、福島と東京の分断を埋める「作業」をていきたい、という記事を日経オンラインで読み、本当にいろいろと考えさせられました。
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『困ってるひと』の著者、大野更紗の福島への思い
福島と東京の分断を埋める「作業」をしていきたい
2012年5月23日(水)
ある日突然難病を発症し、先進国であるはずの日本で「難民化」した自らの姿をリアルに描きながら、医療や福祉制度の深刻な現状を社会的な問題として浮き上がらせた『困ってるひと』(ポプラ社)。著者は福島県出身の作家、大野更紗さん(27)。同書は、大学院生としてミャンマー(ビルマ)の難民支援活動の研究を志していたなかで、病を発病して支援される側の立場に立ったことで、新たに見えてきた世界を独特のタッチで綴った。
その大野さんが5月21日、これまでメディアに語ってこなかったことを話してくれた。福島県出身者として、作家として、事故を起こした原発をどう見ているのだろうか。そしてなぜあえて今、話すのか。
「原発事故が起きることは、わたしにとっては『とっくの昔に知っていた』ことでもあります。知っていた、という表現には、語弊がありますね。東日本大震災が起きたとき、真っ先に脳裏に浮かんだのは『メルトダウンする』というフレーズでした。それは、理屈や論理でもなく、知識とか思想とか、そういう類のものとも違うものでした。それは18歳まで、福島のなかでも特に、原発を考えることが多い環境で育ちました。福島第一原子力発電所をめぐる『家訓』のようなものから浮かんできた、個人的なフレーズです」
「3.11後、福島について何度も『コメント』を求められる機会がありました。でも、『コメント』はすべてお断りしました。3月19日に自分のブログに、記録用に小文のようなものを書き、それから文芸誌に一度、長めのエッセイを発表しましたが、それも直接事故について言及するようなものではなく、『遠回しなエッセイ』で、自覚的に「のらりくらりと受け流してきた」ように思います』。
「東京からの手紙」というタイトルは、ミャンマー難民の支援活動をしていた学部生時代に読んだ、1冊の本にちなんでいるのだという。ミャンマーの民主化運動の象徴的存在でもあり、1991年にノーベル平和賞を受賞しているアウンサンスーチーさんが、毎日新聞の紙上で連載した「ビルマからの手紙」。アウンサンスーチーさんは、軍事政権下で通算約14年9カ月もの長きにわたり自宅軟禁状態におかれながら、一貫して、対話による社会の漸進的な変革を求め続けてきた。大野さんは自身の連載のなかで、「福島と東京の深い断絶に、対話の回路がひらかれること」、原発震災後に福島県内で起きている様々な問題について、その糸口を見つけたいという期待を綴っている。連載を開始するにあたって、原発をめぐる原体験、家族や親戚、友人たちが暮らしている被災地・福島への思いを話してくれた。
そして原発をめぐる原体験、家族や親戚、友人たちが暮らしている被災地・福島への思いを話してくれた。
日常に交わされる言葉の中に「原発」があった
一県民として、大野さんが原発のことを知ったのはいつだろうか。それは20数年前の幼い頃にさかのぼるという。
「私が育った家は福島県の中通りの山あいにあります。『困ってるひと』(自著)では『ムーミン谷』と呼んでいますが、東北の典型的な、過疎と高齢化が進行する小さな集落です。母方の家は、浪江町にあるんです。小さい頃、浪江の祖父母の家に遊びに行くと、ムーミン谷にないようなきれいな公園や保養施設がたくさんあって、そこで遊んだりしていました。子どもながらこんなに立派な施設があるのは『東電が放射能のお金で作ってくれたからだ』とちゃんと理解していました」。
「原発事故が深刻な事態を引き起こす。それについて、驚きや『騙されていた』というような感情が、わいたことはありません。幼い時から『原発の危険性』については、祖父や母から何度も言い聞かされてきました。福島第一原子力発電所が老朽化した危険な施設であり、いつかは大事故が起きるだろうということは、知っていた。そして、大事故が起きたらどんな状況になるかも知っていました。原発に関して、専門的な知識は一切わかりません。どんなに勉強しても素人の付け焼刃だし、わかるとは到底思えません。わたしが個人的に、数学も物理も苦手で数式は見るだけで眩暈がするという、筋金入りの文系であることも、放射線リスクをめぐる膨大な一次資料を読めない大きな理由の1つだと思います。ただ、『人間の、あたりまえの生活の感覚』として、こんな施設の近くに住むことは危険だということは、祖父から滔々と聞かされつづけてきました。祖父は、ただの一住民です。でも、原発という施設の近隣で生活する人間として、歯が立たないような設計図や専門用語を目の前に、何十年もいつまでも、執拗に素人勉強を続ける、変わった人でした」
原発について日常的に関心を持っていた背景には、自らが育った環境が非常に大きく、日常感覚として原発問題に触れていたという。
「この、もう亡くなってしまった母方の祖父(母の父)は、地元の反原発運動家でした。浪江町は、福島第一原子力発電所のある大熊町と双葉町の隣町です。自治体の線引きはともかく、直線距離は近かった。内橋克人さんの『日本の原発、どこで間違えたのか』という本の中に、地元の反原発運動家たちの記述があります。これを読むと、祖父のことを思い出します」
「この町に、賛成の学者もくれば、反対の学者もくる。講義はしてくれるが、横文字で書かれたって、どっちがどうとも分かんねえ。で、日本語で教えてもらいたい、と……」
「大学教授の話を八ミリ撮影機とテープレコーダーで記録し、自宅に持ち帰ってから専門用語の解読に没頭したこともある。説明に現れた技術者に「原発は爆発するものなのか、しないものか?」と質問して冷笑された……。”
『日本の原発、どこで間違えたのか』(内橋克人著、朝日新聞出版社)から引用
「祖父は原発直下の地域で『ふつうの人』として暮らしながら、このような『独学』をしているタイプの人でした。近所で忌み嫌われるわけでもなく、『ちょっと変わった人だなあ』という感じでしょうか。母も『独学』タイプで、プルサーマル計画がいよいよ始まるという時に、郡山駅前まで行って、独学を重ねたほかのお母さんたちと一緒にその危険性を訴えてシュプレヒコールを上げたり、デモをしていました。そういう母や、『革新派の婦人』たちを見て、わたしは『うーん、変わった人だ』と思いつつ、『でも、えらいな。道ゆく人はみんな無視するのに、やめないんだなあ』とも思いました」
「中通りで生まれ育った父の方は、保守的で、原発については母とは違う考えの持ち主でした。浪江の家と中通りの家は、数十キロしか離れていませんが、原発に関する世界観は全く違います。母は『ヨソモノ』で、例えば選挙がある日は、子どもとしては困りましたね。夫婦間の政治的対立が、ピークに達する(笑)。ただ、それが家族の中で深刻な問題にならなかったのは、たぶん、保守的な考えを持っていながらも、父が柔軟だったことが非常に大きかったと思います。母が『地震で放射能漏れが起きるかも』と話せば、父は『そだことあるわけねえべ』とか『これだから理想ばっか語られっと困んだ』と言いながらも、母が言うことにも同調するときもある。実際、地震が起きて放射能漏れについてのニュースが福島県内のローカルテレビ局の番組で流れると、『不気味だなあ』と言ってみたり。父と原発の話をした記憶は、ほとんどないです。父は関心もないし、話さないからそれは当然のことですよね。祖父や母との会話のなかでは、『メルトダウン』とか『燃料棒』という単語は『カレーライス』や『ラーメン』と同じレベルで何の不思議もなく、日常的に使われていました」
家族とは3.11の震災直後から2週間ほど、連絡が取れず、生死も確認できない不安な日が続いたという。
「親戚の中には、浪江町の津島に避難していた原発避難の当事者もいます。しかし同時に、原発の現場の作業員として、東電の下請け関連会社で働いている人もいます。また、災害関連死のような形で、震災後に亡くなった親戚もいます。浪江町の家は『そこにある」けれども、もはや消失してしまいました。人はばらばらになり、みなそれぞれが、一生かけても取り戻せないような深い傷と負荷を負っています。そのようなことも『想定内』として、みな、心身を引き裂かれながらも、淡々と受け止めてきたように思います家や親戚の内部も、『分断』の中に置かれてきました」
原発は、福島県民や国民の間で分断や対立を生む「装置」として、3.11の東日本大震災のずっと前から、日常の生活の場に据え付けられていたのかもしれない。
「内なる途上国」と化した福島
いま、新聞連載を中心に、機会あるごとに東京と福島の人々の間の対話を呼び掛ける大野さん。大野さんの目には、「支援する側」「支援される側」に分かれてしまった厳しい現状が危機的に映っている。
「今、福島は『内なる途上国』と化してしまったのかもしれません。福島の人が自分たちなりの思考や言葉でいくら訴えても、東京の人たちにはうまく伝わらなかったり、自分たちが意図する文脈とは全く違う文脈で東京の人に受け止められてしまう。言葉が、通じない。『分断』そのものです。一方、東京の人は、何とかして福島の人たちを助けたい、役立ちたいとも思っています。福島を支援したいという思いは、東京だけでなく、世界中の人が感じていると思います。同時に、東京で生活する以上は、福島を含め地方が作った電気を消費しなくてはならない。大きなシステムを突然変えることはできませんから、脱原発というのは漸進的にしか進まない。『もやもやとした気持ち』、それを拭い去ることができない。電気を使わないで暮らすことは、誰にもできない。わたしだって、そうです」
東京で、闘病生活をしている大野さん。言葉の乖離について、考えることが多いという。
「私は『中途半端な者』ですので、東京ムラの言語と、福島ムラの言語が両方聞こえてきます。大学進学で上京する時は、私にとっての『福島』というのは、懐古する『ふるさと』でありつつも、衰退しゆくことが目に見えていて『もうなくなってもいい』とすら考えていた。高校を出ても、自分が就職できるような働き口がない。若者の雇用がないこと、たとえあったとしても決してよい条件や環境ではないこと。その現実については、地域の人たちもわかっていると思います」
「東京に出ていくと『立派だ』と褒められる。地域に根差して、その土地で暮らしていくという覚悟を決めている地元の人から『東京に出るなんてすごいねえ』と言われると、たまらない気持になった。私のどこが立派なのかと、心が罪悪感でいっぱいになった。私は、『みなさんこそが、立派で、すごいです』と言いたかったけれど、今までずっと何も言えなかった。言えなかった、のではなく、言わなかった。福島がズタズタに傷つくのを、ただ見ていた」
「なぜ避難しないのか」は冷淡に聞こえる
「一度は福島を切り捨てた」という大野さん。それでも福島から目を離さず、こうして対話の糸口を探る取り組みを始めたのは、難民支援などを通じた「支援する体験」と、難病患者として「支援される体験」を経て、福島の人に向けられた心無い声もきっかけの一つにはあった。
「原発震災は、阪神・淡路大震災の被災とは、いくつか異なる点があると思います。まず第一に、原発震災は1年2カ月を経てもなお、収束せず『続いている』ということです。また、阪神・淡路大震災では、自分の家が破壊されたとしても、そこに自分の土地があり、『戻ることができる』という仮定やストーリーが成立しました。10年、20年後の復興という、長期的な時間軸で物事を考えられてはじめて、街や生活を根幹から再建するというビジョンがうまれてくる」
「ところが原発震災では、戻れるのか戻れないのか、誰も選択肢を提示しない。誰も『わからない』のかもしれませんが。ともかく、明日どうなるともわからない、きわめてぜい弱な状況下で「生活する」ということを、福島の人は強いられているということは言えると思います」
「『なぜ避難しないのか』とか、『好き好んでそこにいるのだろう』とか、あるいは『避難すればいい。避難しないのは自己責任』といったあらゆる種類の言説が、外部から雨あられのように降り注ぐ。いかにも、冷淡です。フィールドワークをしていたとき、難民の方々の話は、膝を折って首を垂れて、延々と伺いました。わたしにとって『都合のいい話』だけしてくれるはずなんて、ない。とにかく、延々と伺う。『延々』と言っても、外部者にとっては、その場にいる一定期間だけです。そのようなことは、逃げられる『外部者』として、その土地に生きる住民の方々に対する、最低限の礼儀作法であると思いました」
「未曽有の『災害』に際して、被災者の方々にさらに複合的な責任論をかぶせていく傾向もいまだにあります。自己責任論というのは泥仕合のようなものですが、その渦中に引きずり込まれてしまった本人にとっての精神的負荷は非常に重い。『複合差別』と言えるような状況が、被災者や福島の人に降りかかっているように思います。かくも巨大な惨禍に際した被災者の方々に、あまりにも冷淡ですね。そして、被災地の『復興』とは、本来その地域の住民の方々によって成し遂げられるものです。住民の方々を圧迫し追いつめるという点においては、『復興』の阻害要因になるようにも思います」
「そして、避難をめぐる問題について、議論を整理し、『なんでもかんでもごった煮』状態になってしまっている現在の状況を少しずつ整理整頓してゆくことが、今後の課題だと思っています。整理する際も、主体は『住民=本人』であるという第一義的原則を外さないことに、気を遣いたい」
福島のニーズをさがす作業
被災地福島VS被災地以外で起こる分断。その分断を解決するための糸口は何か。
「福島の人に何らかの選択肢を社会が提示するとして、一体、どのような形が望ましいのか。原発震災という未曽有の事故にあわれた方々がこの1年2カ月、何を見て、何を経験し、今何を考えているのかを福島の方々に伺いたいのです。どのようなニーズを抱えているのかということを、ある程度整理する必要もあると思います。今までは震災の最中で、その日その日を生きてゆくのが精いっぱいで、『自分のニーズ』を考える余裕すらなかったと思います。ニーズは、遠くにいる誰かが決めてくれるものではない。今、福島で暮らす人々に求められていることがあるとすれば、自分のニーズを表出することかもしれません。それだけは、誰も代わりにやることはできません。語り、申し立てなければ、誰も代弁してはくれません」
しかし、支援される側としては、大声で何かを求めることがはばかられる場面があるのが現実だ。
「本当に必要な支援を他人に求められないというのは、支援の現場では、よくあることです。例えば社会福祉に携わっている人たちは、支援される側にそういった気持ちや戸惑いがあることは、前提として活動していると思います。ただし支援者も、ニーズを100%実現するのは難しい」
「両者が、互いにいかに社会の中でベストインタレスト(本人にとっての最善の利益)を追及し、実現していくことができるか。日本社会は社会保障や社会福祉の基盤整備が、たちおくれています。ソーシャルワークの必要性に、これほど大規模に、現実として直面したのは今までにないことですよね」と大野さん。
凡庸な失敗のくりかえしでしか人は学べない
原発を巡っては、反原発や脱原発を言えば色分けされ、問題が矮小化されてしまうといった問題もある。今回、初めて原発について言及することへの抵抗はなかったのだろうか。イデオロギー的対立についてはどう見ているのか。
「反でも脱でも、どっちでもいいんじゃないですか。そういうのは、思想の領域ですよね。どのような思想をもっていたとしても、今日、生きる権利はあります。イデオロギーを否定はしませんが、わたしはただ、それについて関心がない。『反原発』も『御用学者』も、そうやって分け隔てることについて、関心はないです」
「今の課題は、基本的な生活基盤の危機に陥っている人ををどうやって支えるかという段階です。例えば、今日これからご飯をどう食べるかと言う場面で、反原発でも脱原発でも原発推進でも、食べないと生きていかれないでしょう。 誰だって『助けてください』というのは躊躇するし、恥ずかしい。特に、中高年の男性はこういうのがいかにも下手ですよね。でも、死んでしまうようなプライドなら、さっさと捨てて、大丈夫です。今は何より、生き延びてほしい。生き延びて、これからの日本社会や地域社会を立て直すことにエネルギーを使ってください」
「『美しく死にたい』とか、『人に迷惑をかけずに死にたい』とか、そんなに簡単に言わないで下さい。美しく死ねなかったら、迷惑がかかるんだったら、生きている価値はないんですか?人間の生命が『生きるに値する』とか、『生きるに値しない』かどうか?そんなこと、誰に、決める権利があるんですか」
「私も1日の中で20回も30回も、自分のくだらないプライドに辟易しています。凡庸な失敗を繰り返す。うまくいかないんです。本当にうまくいかないんですが、うまくいかなくてもいい、それでも何とか生き延びること。人に迷惑をかけてでも、生き延びること。それは『わがまま』とは違います。『わがまま』と『ニーズ』は何がどう違うのかについて、それもおそらくは、ともに格闘して学ばねば、見えてこないことのように思います」
「日経ビジネスオンラインということで、余計なひと言を。ビジネスの最前線にいる方々のほうがこういう話は感覚的にわかるのではないかと思います。組織の中で、新しいアイデアを出す人というのは、安定的な組織の中では一種の『破壊的』な存在です。でも、組織が新しい視点へ進むときには、『破壊的なエイリアン』的な要素が必要ですよね。今、震災後の日本社会は急速な変化に対応せざるを得ない状況になっています。凡庸なデジャブ感のある失敗を100万回繰り返し、失敗することでしか学べない。それはビジネスの世界のフロントランナーこそが、毎日こなしている『作業』であるような気がします」。
とにかく生き延びよう――。生死に直面した体験を経て、現在もなお病や社会のシステムと闘う大野さんが、被災者と福島に向けたエールだ。
2011年3月11日以前の福島を記録に残したい
最後に、なぜ今「アーカイブ」と復興を関連付けて考えているのかについて、聞いてみた。
「福島は将来、人口が減って、県全体の活力が減っていく可能性のほうが高い。長期的に、福島県が「消える」かもしれない。それは、何を意味するのかということを、最近よく考えます。福島という地域に住んできた人々の文化や歴史が、世界からまるごと『消える』ことになる。福島の歴史や文化を後世に残すことは、今後この未曾有の原発震災を経て、生活していく人々に、ヒントを残すという非常に重要な『作業』であるように思います。『アーカイブ』を残してください。重要なことは、2011年3月11日『以前』です。何世紀にもわたり、福島で、人が生活や文化を紡いできた。公民館の片隅や、家々のタンスの中に仕舞ってある『記録』をひっぱり出してきて発信してほしい。それらは世界の人たちにとって、後世の人たちにとって、重要な資料となると思います」
「地方紙や地域のミニコミ、町の町史、あるいは口述筆記でしか残せない、戦中から戦後を経験してきたおじいちゃんやおばあちゃんたちの証言。どんな形でもいいから、記録しておく。アーカイブしておく。検証や整理は、何十年か後に、誰かがしてくれます」
半減期の長い放射能問題は、今後20年、30年、さらに、現代に生きている私達が死んでしまった後もずっと続く課題として、残ることになる。大野さんが言う福島と東京との対話は、実は未来との対話なのだ。アーカイブや記録は、未来の人々に手渡す大切な「手紙」の一つなのだ。
大野 更紗(おおの・さらさ)
1984年福島県生まれ。作家。上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科博士前期課程休学中。2008年に自己免疫疾患系の難病を発症。著書に『困ってるひと』(ポプラ社)など。2012年、第5回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞受賞。大野さんは4月25日から、福島県の地元紙・福島民友新聞で「東京からの手紙」(毎月1回最終水曜日に掲載)をスタート、自身のブログでもその内容を紹介している
日経ビジネスオンラインより転載
キベラスラムより早川千晶さんのお話し会
昨年の3月11日の震災のすぐあと15日にキベラスリムの子どもたちが涙を流しながら祈りの歌を歌ってくれたものを↑のユーチューブで見たとき、その純粋でひたむきな思いにうたれ、とても感動しました。
そのときに子どもたちの歌を指揮してリードしてくれたオギラ先生とその子どもたちの学校『マゴソスクール』を作られたリリアンさんが、早川千晶さんと共に昨日、広島にお話に来られました。
場所は広島市の府中町にある久蔵寺でありました。
キベラスラム、というのはケニア最大のスラムだそうで何十万人という人が狭い場所に密集して暮らしているのだそうです。
そのケニア最大のスラム、キベラで、困難な状況にもかかわらず懸命に生きる子どもたちを助け、励まし、子どもたちと共に歩んできたスラムの住民リリアン・ワガラさんとヘゼカヤ・オギラ教頭先生からお話を聞きました。
1999年、リリアンさん自身が暮らす長屋の一室に20人の孤児の子どもたちを集めてはじまった小さな寺子屋・マゴソスクールは、現在、幼稚園から小学8年生までの生徒が389名、ジュンバ・ラ・ワトト(子どもの家)で暮らす児童数30名、職業訓練 生5名、高校生50名の大家族になりました。親を失った子どもたちの多くは貧しい親戚の間をたらいまわしにされて暴力を振るわれたり、労働力として使われ、性的虐待を受けるなど、想像を絶する苦しみを負わされます。
リリアンさんは、そんな傷ついた子どもたちや、放置された子どもたちを自分のもとに引き取り、学校に通わせ、愛情を注いできました。オギラさんもそんな子どものひとりでした。成長したオギラさんは、マゴソスクールの教師となり、今では教頭となって、リリアンさんの片腕としてマゴソスクールを支えています。
最初、リリアンさんがマゴソスクールを始められたいきさつについて早川千晶さんが話してくれました。
リリアンさんは18人兄弟の長女で両親が亡くなってから懸命に働き17人の弟や妹たちを育ててきました。生きるためには何でもやったそうです。
そんな13年前のある時、友人だった早川さんに
「私決めたわ。 私やるわ。 だまって見ていてね。」といって、自分の長屋の一室にスラムで放置されている傷ついた孤児たちを引き取り始めたのだそうです。それが現在500名近くになるマゴソスクールの始まりだそうです。
そのとき早川さんは聞いたのだそうです。「どうしたあなたは18人兄弟でその兄弟を食べさせていくだけでも大変なのに、ほかの子どもたちをひきとるのか?」と。
そうしたらリリアンさんは「あなたは寂しい子どもたちの気持ちがわかるか?」といい、「私はたくさんの笑えなくなった子どもたちみんなのお母さんになるの。」と言ったのだそうです。
その言葉にうたれた早川さんはリリアンとともに二人三脚でマゴソスクールの運営を始めたのだそうです。
マゴソスクールには本当に貧しい子どもたちばかりなのですが、ここにきたら救いがある、という場所にしたい、ここでしかご飯が食べられない子どもたちもたくさんいるのだそうですが、早川さんはその子どもたちからたくさんの強い命の光を感じさせていただいている、と言われていました。
繋がりあっている命の光。
「ハランベ」みんなで助け合い支えあおう、という意味だそうですが、命を讃える歌を心をこめて歌いながら、この身体を神様のために使っていただこう、との思いで困難を乗り越えて、希望を持って生きていく力強さをこの3人からとても感じました。
リリアンが最後に、
私の夢はもっともっとたくさんの子どもたちを助けて生きたい。
そして保護した子どもたちがよりよい人生を歩めるお手伝いをしてゆきたい。
その助けた子どもたちが更にまた子どもたちを助け、幸せを分かち合える未来の子どもたちに繋げてゆきたい。
リリアンさんと早川千晶さん

「大変な時ほど笑顔で大丈夫だと言ってみるのよ。
そうすれば、また前に進んでいく力をもらえる。」
~リリアン・ワガラ
オギラ先生

「僕たちには歌がある。歌は希望を与えてくれる。願い続ければきっと夢はかなう。」
~ヘゼカヤ・オギラ
3人で歌われているところ

●リリアン・ワガラ(Lilian Wagala)
1970年生まれ。キベラスラム在住。18人兄弟姉妹の長女。2児の母。
末の弟が5歳のとき、キベラスラムで両親を病気で立て続けに失う。それ以降、リリアンが親代わりになって弟妹を育ててきた。 1999年、キベラスラムの長屋の一室に20人の孤児の子どもたちを集め、マゴソス クールをはじめる。 数多くの孤児、家庭が崩壊した子どもたち、貧困児童、子どもを抱えた未亡人などを助けている。
●ヘゼカヤ・オギラ(Hezekiah Ogira)
1986年生まれ。キベラスラム在住。11人兄弟姉妹の二男。
9歳のときにキベラスラムで母親が死亡。そのとき末の弟(スティーブ)は1歳だった。小6のとき、父が再婚。子どもたちは義理の母親に虐待を受けるようになった。義母に田舎の村に連れて行かれるが、14歳でオギラは自力でキベラスラムに戻り、進学する費用を得るために日雇労働で働いた。1年間働いてから、6歳のときに教会で出会っていたリリアンに再会し、助けられる。リリアンの協力により奨学金を得て、2000年、セカンダリースクールに進学。高校に通いながらマゴソスクールでボランティアをはじめる。2004年、高校を卒業し、マゴソスクールの正式な教師となり、田舎の村に弟妹(スティーブ、アモス、ジョアン)を迎えに行きキベラに引き取る。2008年、マゴソスクールの教頭に就任。現在に至る。マゴソスクールでは音楽部の顧問を務め、歌や踊り、タイコなどを指導して子どもたちを盛り上げ、マゴソスクールの音楽チームを毎年、ケニア全国小学生の音楽大会での入賞に導いている。
●早川千晶(はやかわ・ちあき)
ケニア在住23年。1966年福岡生まれ。東京外国語大学インド・パーキスターン語学科ウルドゥ語専攻中退。
1985年から世界各地を旅し、長い旅の末ケニアに定住。スタディツアーの企画、ガイド、テレビの撮影コーディネーター、新聞・雑誌などの取材コーディネーターなどで働きながら、キベラスラムの仲間たちと共に、マゴソスクール、ジュンバ・ラ・ワトト(子どもの家)、マゴソOBOGクラブ(高校奨学生グループ)を運営している。ケニア在住のミュージシャン・大西匡哉と共に、音楽レーベル&プロダクションJIWE設立。CD制作、映像制作を行っている。マサイ族の青年リーダー、ジャクソン・オレナレイヨセイヨと、永松真紀と共に 、マサイ牛貯金「Enkirorokino Sidai Masai-Japan Connections」設立。マサイのコミュニティと行うエコツアーを主催している。 日本側の窓口として、マイシャ・ヤ・ラハ基金(http://www.maisha-raha.com/) がある。
コペンハーゲン・メトロで『ペール・ギュント』のサプライズ
Flash mob in the Copenhagen Metro. Copenhagen Phil playing Peer Gynt.
2012年4月に、コペンハーゲン・フィルは、グリーグの『ペール・ギュント』を演奏して、コペンハーゲン・メトロの乗客を驚かせたのだそうです。
すべての音楽は、メトロの中で演奏されて、録音されたのだそうです。
最初とまどっている表情の方たちが、やがてとてもうれしそうな笑顔に変わり、、演奏している人たちも聴いている人たちもとても楽しそうでした。
こんな地下鉄、乗ってみたいな~♪
2012年4月に、コペンハーゲン・フィルは、グリーグの『ペール・ギュント』を演奏して、コペンハーゲン・メトロの乗客を驚かせたのだそうです。
すべての音楽は、メトロの中で演奏されて、録音されたのだそうです。
最初とまどっている表情の方たちが、やがてとてもうれしそうな笑顔に変わり、、演奏している人たちも聴いている人たちもとても楽しそうでした。
こんな地下鉄、乗ってみたいな~♪
草々庵の十割蕎麦
福富には知る人ぞ知るお蕎麦のお店『草々庵』があります。

ここではお蕎麦を自然農で育てられ、石臼でそば粉を挽いて自家製の十割蕎麦を食べさせてくださいます。
柿の葉とお野菜の揚げ物とこんにゃくの和え物、そしてあさつきとせりの薬味が十割蕎麦をひきたてていました。
打ちたての蕎麦は10秒しか湯がかないのだそうです。
今まで食べていた蕎麦は何だったのだろう、と思うほどに、蕎麦の香り、食感、のど越しがとても良くて、心もお腹もとても喜んでいました。
この日は埼玉から来広された友人と広島の皆様とご一緒したのですが、皆様感嘆の声をあげられながら、満足そうに食されていらっしゃいました。
福富に来られたら、ぜひ立ち寄られてみては、と思います。
要予約ですので下記にご連絡を♪
東広島市福富町下竹仁744-1
082(435)2668
営業日 金曜日、土曜日
お一人 1500円


そばがき




ここではお蕎麦を自然農で育てられ、石臼でそば粉を挽いて自家製の十割蕎麦を食べさせてくださいます。
柿の葉とお野菜の揚げ物とこんにゃくの和え物、そしてあさつきとせりの薬味が十割蕎麦をひきたてていました。
打ちたての蕎麦は10秒しか湯がかないのだそうです。
今まで食べていた蕎麦は何だったのだろう、と思うほどに、蕎麦の香り、食感、のど越しがとても良くて、心もお腹もとても喜んでいました。
この日は埼玉から来広された友人と広島の皆様とご一緒したのですが、皆様感嘆の声をあげられながら、満足そうに食されていらっしゃいました。
福富に来られたら、ぜひ立ち寄られてみては、と思います。
要予約ですので下記にご連絡を♪
東広島市福富町下竹仁744-1
082(435)2668
営業日 金曜日、土曜日
お一人 1500円


そばがき



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